リディア・バイチ(violin)/佐渡裕(指揮)/東京フィル@軽井沢大賀ホール
2007年 05月 03日
ヴァイオリンのリディア・バイチ、素晴らしかった。
彼女が弾き出すと、オーケストラの音が、急に色を失ったように聴こえてしまう。
他の曲を聴いたら、絶対に、そんなはずないのに。
佐渡裕の指揮、チャイコフスキーのコンチェルト、いずれも彼女の「浪花節系」?の歌い方に、ぴったりマッチしていました。
いや、「美空ひばり」系かな。
若いのに、光るプレーンなイブニング・パンプスで、舞台にすっくと仁王立ちして、堂々と弾きまくる姿。
ソロ部分を弾き終えて、肩から楽器を下ろし、しばらく余韻を味わうように、オーケストラと一緒に頭をゆすっている、…まるで、自分がそれらの音を出しているかのような、しぐさ。
いやーみなさん、圧倒されていましたね。
1楽章終わった時点で、思わず拍手が沸いちゃったぐらいに。
以下、当日のプログラム。
ドヴォルザーク : 序曲「謝肉祭」作品92
チャイコフスキー : ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35
(休憩)
ドヴォルザーク : 交響曲第8番と長調作品88
「メンコン」じゃなくて、「チャイコン」。
私にとってこの曲は、「大学の図書館・閉館お知らせの音楽」で、この音楽が流れ出したら、そろそろ机の上を片付けなさい、という意味だった。
…あれは、誰の演奏だったんだろう。
あの頃は、ヴァイオリンソロになんか、ほとんど興味がなかった。
友人のヴァイオリン弾きは、へんなやつばかりだったし。
(私が今、子供たちに弦楽器をやらせてると知ったら、彼らはきっと、へぇ~っ!ひろこちゃんがねぇ~、と大笑いするだろうな…)
今、記憶にあるメロディーを反芻してみると、あんまり個性的すぎず、ほどよいこぶしの効いた、古きよき時代の演奏だったような気がする。
もっとも、あれから20年経ってるのだから、私の子供たちにしてみると、かなり「古い」。
その図書館ではいつも、ヴァイオリンのソロが盛り上がってきたところで、音楽はフェイドアウトしてしまう。
いよいよ退出しなくちゃ、というより、追い出される雰囲気、濃厚になってくる。
しかし、目の前のリディア・バイチは、フェイドアウトするどころか、ぐいぐいぐいぐい、力強く歌って、周囲がどんどん、かすんでいく。
まるで、この会場中で彼女しか、ビブラートをかけていないような。
それほど、圧倒的な力強さ、歌心と、存在感。
プログラムを見ると、サンクトペテルブルク(旧レニングラード)生まれ、「ロシアの有名な音楽一家出身の母とオーストリア人チェロ奏者の父」を持ち、「サンクトペテルブルク・フィル首席ヴァイオリン奏者だった祖父からヴァイオリンの手ほどきを受ける」…うむ。
そう思って聴くとなるほど、ロシアの濃~い節回し、地の底から湧き上がるような、ゆさぶられるような音。
昔、レニングラードフィルの「ショスタコ」(ーヴィチ)5番を聴いたときに、窓がめりめり音を立てるんじゃないかというぐらいに、湧き上がる金管楽器が束になった音に、思わず笑っちゃったことがあったっけ。
リディアのヴァイオリンは、力強さはそのままに、でもそれより洗練されていて、繊細なフレーズもそつなく、歌いこなしてみせる。
でも、その繊細な神経の根っこは、やっぱり、しっかと舞台に踏みしめた足につながっているのだった。
誰でもOK、というわけではないけれど、演奏には、有無を言わせぬ説得力がある。
たぶん、今までにいろんなことがあったのだろう、と勝手に思う。
そうとは感じさせない、ポジティブなところも、大きな強みかも。
貫禄、骨太。
そう思って彼女のインタビュー記事の写真を見ると、荒々しい野生的な部分と図太い神経を、美しい金髪と魅力的な目がいたずらっぽく、覆っているように見えます。
彼女が弾き出すと、オーケストラの音が、急に色を失ったように聴こえてしまう。
他の曲を聴いたら、絶対に、そんなはずないのに。
佐渡裕の指揮、チャイコフスキーのコンチェルト、いずれも彼女の「浪花節系」?の歌い方に、ぴったりマッチしていました。
いや、「美空ひばり」系かな。
若いのに、光るプレーンなイブニング・パンプスで、舞台にすっくと仁王立ちして、堂々と弾きまくる姿。
ソロ部分を弾き終えて、肩から楽器を下ろし、しばらく余韻を味わうように、オーケストラと一緒に頭をゆすっている、…まるで、自分がそれらの音を出しているかのような、しぐさ。
いやーみなさん、圧倒されていましたね。
1楽章終わった時点で、思わず拍手が沸いちゃったぐらいに。
以下、当日のプログラム。
ドヴォルザーク : 序曲「謝肉祭」作品92
チャイコフスキー : ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35
(休憩)
ドヴォルザーク : 交響曲第8番と長調作品88
「メンコン」じゃなくて、「チャイコン」。
私にとってこの曲は、「大学の図書館・閉館お知らせの音楽」で、この音楽が流れ出したら、そろそろ机の上を片付けなさい、という意味だった。
…あれは、誰の演奏だったんだろう。
あの頃は、ヴァイオリンソロになんか、ほとんど興味がなかった。
友人のヴァイオリン弾きは、へんなやつばかりだったし。
(私が今、子供たちに弦楽器をやらせてると知ったら、彼らはきっと、へぇ~っ!ひろこちゃんがねぇ~、と大笑いするだろうな…)
今、記憶にあるメロディーを反芻してみると、あんまり個性的すぎず、ほどよいこぶしの効いた、古きよき時代の演奏だったような気がする。
もっとも、あれから20年経ってるのだから、私の子供たちにしてみると、かなり「古い」。
その図書館ではいつも、ヴァイオリンのソロが盛り上がってきたところで、音楽はフェイドアウトしてしまう。
いよいよ退出しなくちゃ、というより、追い出される雰囲気、濃厚になってくる。
しかし、目の前のリディア・バイチは、フェイドアウトするどころか、ぐいぐいぐいぐい、力強く歌って、周囲がどんどん、かすんでいく。
まるで、この会場中で彼女しか、ビブラートをかけていないような。
それほど、圧倒的な力強さ、歌心と、存在感。
プログラムを見ると、サンクトペテルブルク(旧レニングラード)生まれ、「ロシアの有名な音楽一家出身の母とオーストリア人チェロ奏者の父」を持ち、「サンクトペテルブルク・フィル首席ヴァイオリン奏者だった祖父からヴァイオリンの手ほどきを受ける」…うむ。
そう思って聴くとなるほど、ロシアの濃~い節回し、地の底から湧き上がるような、ゆさぶられるような音。
昔、レニングラードフィルの「ショスタコ」(ーヴィチ)5番を聴いたときに、窓がめりめり音を立てるんじゃないかというぐらいに、湧き上がる金管楽器が束になった音に、思わず笑っちゃったことがあったっけ。
リディアのヴァイオリンは、力強さはそのままに、でもそれより洗練されていて、繊細なフレーズもそつなく、歌いこなしてみせる。
でも、その繊細な神経の根っこは、やっぱり、しっかと舞台に踏みしめた足につながっているのだった。
誰でもOK、というわけではないけれど、演奏には、有無を言わせぬ説得力がある。
たぶん、今までにいろんなことがあったのだろう、と勝手に思う。
そうとは感じさせない、ポジティブなところも、大きな強みかも。
貫禄、骨太。
そう思って彼女のインタビュー記事の写真を見ると、荒々しい野生的な部分と図太い神経を、美しい金髪と魅力的な目がいたずらっぽく、覆っているように見えます。
by caroline-h
| 2007-05-03 07:00
| 音楽