ザンダーさんの講演会、行ってきました。若干、支離滅裂。
2006年 07月 30日
会場前でサンドイッチを食べていたら(時間がなかった)、なんと雀ちゃんが寄ってきた。
鳩じゃないなんて!
いけないのかな?と思いつつ、パンくずを何回かやりました。
足元10cmのところに落ちたら、さすがに躊躇してた。
足を少し引っ込めたら、相当思い切ってダイビングして、すごい勢いでパンくずをつついて、一目散に後ろへ飛び下がっていきました。
ザンダーさんは、映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」に出てくる白髪の博士を、もう少し感情豊かにして、ゴムのように伸縮自在にした感じ。
…これって、失礼?!
たくさんの心あたたまるメッセージから私が感じたのは、「共生感」。
昔読んだ小澤征爾の本の中の言葉。
共に今、この空間と時間を共有する仲間であることを、感じて生きる、その喜び。
なぜ、彼はあんなにチャーミングでいられるのか。
それは、彼が聴衆を信頼して愛していることを、あけっぴろげな言動で示すからかしらん。
彼のメッセージは、「あらゆる可能性がある、それは見つけるもの」と受け止めました。
彼の著書の通りです。
すべての人に、あらかじめA(最上)をつけて、その理由を考える。
すると、考えた本人と相手、双方のやる気が出る。楽しくなる。
失敗したら、万歳をして、「なんて素晴らしい!」と満面の笑みで叫ぶ。
失敗できるなんて!
コーチは、人の可能性に気づかせる人だ、それも、一言で。
…しかし…
正直に告白します。
音楽関係の方の話だったので、私にとっては小さなことがいちいち気になり、「すごく感動した!」とおっしゃる方たちほどには、本題には集中できなかった気がします。
「気になった」のは、素晴らしい!と思えることも、そうでないこともあり。
つまり、「知ってる」ことが、「知らない」「知りたい」「受け取れる」ことを、私の目の前から覆い隠してしまったのだ。
確かに、お話では何度か泣いたけど。
音楽を聴いて感動するのは、「当たり前」…のような気がしてしまう。
音楽に全身全霊をかけるのが、「当たり前」…?
むしろ、「世間では違うのか」という、軽いショックを受けたのか。
みんなが驚いていることに、なんだか驚く自分がいた。
もしそうなら、今まで自分がしてきたこと、見聞きしてきたこと、の持つ意味が変わってしまう。
まるで、理解されていなかったのだ。
それは、想像したくないことだった…当たり前のことなのに!
チェロの方が弾いたバッハの無伴奏は、2年前に娘がヴァイオリンで散々さらった曲。
こないだのチェロ発表会でも、男の子が弾いた。
あれ、それ、と、いちいち思い出してしまう。
2回とも、素敵な弾き方をしてくださったのに。
「指揮者の一言で、どんなに違う可能性が引き出されるか?」というところがミソなのに、
音楽評論のように、「どんな風に変えたいか」「変わったか」と分析している。
そんな見方だと、「変わるのは、当たり前」なのだ、悲しいことに。
そして、「劇的に変わったことに感動するのも、当たり前」、なのだ…。
私は涙した。確かに。でも違う。何かが。
「変化を目の当たりにした人々の感動に、感動した」というほうが、もしかして近いのかもしれない。わからない。
「曲の感じが変わるところでは、眉を上げること」
…息子のチェロの先生がいつもおっしゃることと、おんなじ。
あの先生はいつも、へんなことばかり言っていた。
子どもは笑い転げて、レッスンを受けていることを忘れる。
でも、家で同じように笑い転げさせてばかりいたら、練習させられない。
いつか練習のどこかで泣くんだけど、それが自分で求めたものなら、納得がいくだろう。
…それが難しい。
自分で求めたもの?もちろん、最初はそうじゃない。
年端も行かぬ子どもに、親が勝手に与えたものだ。
そこを、いろんな言い方をして、視点を変えて、自分で求めたように、思わせたのだ。…
カルテットを見ると、「ああこの人は、こういう人なのかな~」と、それぞれの個性を観察しだす。
もはや習慣というか、反射に近い。
だってそれが楽しいんだもの。
帰宅してから冷静に考えてみると、
ちゃんと私にとっての「プレゼント」と思えるメッセージが、たくさんあった。
でも、「あとから」では、生の感激が、味わえないのだ。
これじゃあ、本を読むのと同じだよ~…。
初めて、「音楽やってて、損したかも…」と思いました。
今まで私がやってた音楽というものは、常に評価されるものだったんでしょう。
これって、職業的な音楽評論家がよく言われる「つまらない」という状態なのでしょうか。
自分でもよく分かりません。
テクニックなんか関係なしに楽しめる瞬間が、決して「ない」わけじゃないし、自分なりの楽しみ方も知っている、と思っていたけど。
ひとつだけ、はっきりしていること。
ザンダーさんは、可愛かった♪
…芸術家っていろんなタイプがあるけど、どちらかというと無邪気・天真爛漫なタイプ…
もちろんお会いしたことはないけど、ミュンシュとか?
…しかし、講演会はしないよね。たぶん。
クライバー?
…ますますしない。それどころか、ドタキャンばかりだね、絶対(笑)
バーンスタイン?
…少し近いかな。でも、あそこまで緻密じゃない。
コープランドよりは、都会に近いし、頑固者じゃない(?)。
ほらね。
勝手に想像して、比べてる。
それがまた、楽しいんだけど。
小澤征爾と広中平祐の対談本の中に、お2人を観察したプロデューサーが、
「どんなにくだらないテレビドラマでも、全身全霊をこめて見て、目いっぱい楽しむ姿」
といったことを書いていた。
そういう部分には通じるなー…と、ぼーっと、思い出していました。
…ぜんぜん集中できない(笑)
「子どものような心」とは、芸術において、よく使われる言葉の一つ。
その心に、さらに何が組み合わさっていくかで、またいろんな個性ができるんだな…。
こうして、思いは…無理に収束はさせないでおこう。
そのほうが面白そうだから。
…プログラムを見せたら、パパがチェリストの方のことを「後輩だ!」と言って笑い出した。
世間は狭い。見に来ればよかったのに。そしたらお互い、楽しかったろうに。
私は昔から、他人同士が出会って喜ぶところを見るのが、異常に好きだった。
…なんでだ?
鳩じゃないなんて!
いけないのかな?と思いつつ、パンくずを何回かやりました。
足元10cmのところに落ちたら、さすがに躊躇してた。
足を少し引っ込めたら、相当思い切ってダイビングして、すごい勢いでパンくずをつついて、一目散に後ろへ飛び下がっていきました。
ザンダーさんは、映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」に出てくる白髪の博士を、もう少し感情豊かにして、ゴムのように伸縮自在にした感じ。
…これって、失礼?!
たくさんの心あたたまるメッセージから私が感じたのは、「共生感」。
昔読んだ小澤征爾の本の中の言葉。
共に今、この空間と時間を共有する仲間であることを、感じて生きる、その喜び。
なぜ、彼はあんなにチャーミングでいられるのか。
それは、彼が聴衆を信頼して愛していることを、あけっぴろげな言動で示すからかしらん。
彼のメッセージは、「あらゆる可能性がある、それは見つけるもの」と受け止めました。
彼の著書の通りです。
すべての人に、あらかじめA(最上)をつけて、その理由を考える。
すると、考えた本人と相手、双方のやる気が出る。楽しくなる。
失敗したら、万歳をして、「なんて素晴らしい!」と満面の笑みで叫ぶ。
失敗できるなんて!
コーチは、人の可能性に気づかせる人だ、それも、一言で。
…しかし…
正直に告白します。
音楽関係の方の話だったので、私にとっては小さなことがいちいち気になり、「すごく感動した!」とおっしゃる方たちほどには、本題には集中できなかった気がします。
「気になった」のは、素晴らしい!と思えることも、そうでないこともあり。
つまり、「知ってる」ことが、「知らない」「知りたい」「受け取れる」ことを、私の目の前から覆い隠してしまったのだ。
確かに、お話では何度か泣いたけど。
音楽を聴いて感動するのは、「当たり前」…のような気がしてしまう。
音楽に全身全霊をかけるのが、「当たり前」…?
むしろ、「世間では違うのか」という、軽いショックを受けたのか。
みんなが驚いていることに、なんだか驚く自分がいた。
もしそうなら、今まで自分がしてきたこと、見聞きしてきたこと、の持つ意味が変わってしまう。
まるで、理解されていなかったのだ。
それは、想像したくないことだった…当たり前のことなのに!
チェロの方が弾いたバッハの無伴奏は、2年前に娘がヴァイオリンで散々さらった曲。
こないだのチェロ発表会でも、男の子が弾いた。
あれ、それ、と、いちいち思い出してしまう。
2回とも、素敵な弾き方をしてくださったのに。
「指揮者の一言で、どんなに違う可能性が引き出されるか?」というところがミソなのに、
音楽評論のように、「どんな風に変えたいか」「変わったか」と分析している。
そんな見方だと、「変わるのは、当たり前」なのだ、悲しいことに。
そして、「劇的に変わったことに感動するのも、当たり前」、なのだ…。
私は涙した。確かに。でも違う。何かが。
「変化を目の当たりにした人々の感動に、感動した」というほうが、もしかして近いのかもしれない。わからない。
「曲の感じが変わるところでは、眉を上げること」
…息子のチェロの先生がいつもおっしゃることと、おんなじ。
あの先生はいつも、へんなことばかり言っていた。
子どもは笑い転げて、レッスンを受けていることを忘れる。
でも、家で同じように笑い転げさせてばかりいたら、練習させられない。
いつか練習のどこかで泣くんだけど、それが自分で求めたものなら、納得がいくだろう。
…それが難しい。
自分で求めたもの?もちろん、最初はそうじゃない。
年端も行かぬ子どもに、親が勝手に与えたものだ。
そこを、いろんな言い方をして、視点を変えて、自分で求めたように、思わせたのだ。…
カルテットを見ると、「ああこの人は、こういう人なのかな~」と、それぞれの個性を観察しだす。
もはや習慣というか、反射に近い。
だってそれが楽しいんだもの。
帰宅してから冷静に考えてみると、
ちゃんと私にとっての「プレゼント」と思えるメッセージが、たくさんあった。
でも、「あとから」では、生の感激が、味わえないのだ。
これじゃあ、本を読むのと同じだよ~…。
初めて、「音楽やってて、損したかも…」と思いました。
今まで私がやってた音楽というものは、常に評価されるものだったんでしょう。
これって、職業的な音楽評論家がよく言われる「つまらない」という状態なのでしょうか。
自分でもよく分かりません。
テクニックなんか関係なしに楽しめる瞬間が、決して「ない」わけじゃないし、自分なりの楽しみ方も知っている、と思っていたけど。
ひとつだけ、はっきりしていること。
ザンダーさんは、可愛かった♪
…芸術家っていろんなタイプがあるけど、どちらかというと無邪気・天真爛漫なタイプ…
もちろんお会いしたことはないけど、ミュンシュとか?
…しかし、講演会はしないよね。たぶん。
クライバー?
…ますますしない。それどころか、ドタキャンばかりだね、絶対(笑)
バーンスタイン?
…少し近いかな。でも、あそこまで緻密じゃない。
コープランドよりは、都会に近いし、頑固者じゃない(?)。
ほらね。
勝手に想像して、比べてる。
それがまた、楽しいんだけど。
小澤征爾と広中平祐の対談本の中に、お2人を観察したプロデューサーが、
「どんなにくだらないテレビドラマでも、全身全霊をこめて見て、目いっぱい楽しむ姿」
といったことを書いていた。
そういう部分には通じるなー…と、ぼーっと、思い出していました。
…ぜんぜん集中できない(笑)
「子どものような心」とは、芸術において、よく使われる言葉の一つ。
その心に、さらに何が組み合わさっていくかで、またいろんな個性ができるんだな…。
こうして、思いは…無理に収束はさせないでおこう。
そのほうが面白そうだから。
…プログラムを見せたら、パパがチェリストの方のことを「後輩だ!」と言って笑い出した。
世間は狭い。見に来ればよかったのに。そしたらお互い、楽しかったろうに。
私は昔から、他人同士が出会って喜ぶところを見るのが、異常に好きだった。
…なんでだ?
by caroline-h
| 2006-07-30 02:55
| コーチング